moyo : : diary

気持ちフォト士

ジョナサンの感想

私のパソコンモニターは15分何もしなかったらスクリーンセーバーに切り替わリます。
私が撮った数枚の写真が切り替わるようにしてますが、何年も前から同じ写真を使い続けています。
先程から読み終えた本の感想を書こうとパソコンの前で”ぼーっ”としていると、モニターが数枚の写真を流し始めました。
あっ! これ。

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かもめのジョナサン完成版を読みました。好きな本の一冊になりました。
Part fourまで有り、昔読んだのはPart threeまでで、今回加わったのはPart four
読んでわかったのはPart fourは最初の出版当時既に書かれていて、作者が不要と判断し省かれていたこと。
新聞に載っていたように、飛行機事故をきっかけに、現在の世を知る作者が、過去の本人が書いたPart fourを載せることにしたとのことです。

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五木寛之氏の後書きは今回もなかなか味があって、共感するところや抵抗感も有ります。
かつて読んだ本を読み返すと、色々な発見や別の見方をするものですが、この本に関してもそういうのが有りました。
しかし、内容(ストーリー)に関しては殆ど覚えていたというのがある意味びっくりしました。
よく考えたら、それほど短くて、単純で、当時はとても話題になったからでしょう。
そして、Part fourですが、これまた短い。ほんの数ペイジではないですか。
短いながらも、思いもよらないリアリティーな方向へ話が行ってしまいました。
そして、当初からPart fourが有ったのだなと感じる自然な内容でした。
なぜ、元々書かれていたPart fourを端折ってしまったのか? これはよくわかりません。
そして、Part fourを載せていたらあれほどのベストセラーになっていたか? これも勿論わかりませんが、省いたために作者の意図は当然ぼやけます。

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これとは関係ないですが、A.C.クラークキューブリック2001年宇宙の旅がちょっと残念なのは、全体的な意味不明さを最終の宇宙に浮かぶ赤ん坊が解き明かしてしまったからだと私は思っています。最初のシーンで猿が放り投げる白い骨が見事に宇宙船に画像変換されるのは、最後の赤ん坊で意味がはっきりします。
もちろん意味がぼやけてなくても不朽の名作となってるのですが。

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かもめのジョナサンは完成版を読む限り、当初のPart threeで終わる最終はぼやけていたとも言えるし、作者の言うとおり、当時は不要だったのかもしれません。
しかし、2001年宇宙の旅と違って、意図がはっきりした完成版のジョナサンで有ったとすれば、おそらく当時であればベストセラーにはならなかったと思えます。
元々、お金の無いアメリカの貧乏学生が共感し、回し読みしてた本だった、と記憶してますが、そういう本ってどんな内容なんだ? そのような、アメリカの若者に対する興味からベストセラーになったのではなかったでしょうか。
しかし、Part fourをくっつけると、読者の対象はもうちょっと幅広くなってしまう。フォーカスは貧乏学生だけではなくなる。エリートも含まってしまう。そうなると、ペーパーバックの回し読みは発生しない。
リチャード・バックがPart fourを端折ったのは、本当に必要が無いと思ったのでしょう。
逆に、Part fourをくっつけた今回の意図が、今の私には理解できていません。ここが私が感じる五木寛之氏の後書きの抵抗感です。

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死にかけたことなど一度も無いので、本当の意味がわかってないのかもしれません。
五木寛之氏は仏教探求者?なので、後書きの主体はあのようになるでしょうし、白人って大概が宗教に守られ人生を送ってながら、それを醒めた見方をしたりするので、飛行機事故によって死を感じたからfourを追加したという関連もよくわからないし、当初の物語の意図はがはっきりした結果、より深い物語になったのかどうかもよくわからないです。有ると言われれば絶対に見たくなる。そういった種類のものだと感じてしまいました。
私が感じるのは、リチャード・バックが飛行機乗りで、しかも元戦闘機パイロットであり、アクロバットパイロットであったということであり、そして飛行機事故と言っても、自身が操縦する飛行機の事故だった、ということから生まれた動機だろうということです。

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五木寛之氏はリチャード・バックが書きたかったことはPart fourに有ると書かれていますが、私はこのようなパイロットは飛んでる瞬間、とてつもない自由を手に入れている、と想像してしまいます。このような人は、飛んでる時に何かを超えてしまうんでしょう。飛行機という実態、そして自身の身体、これらを超えてしまうことは、Part threeで言い尽くされていたと思いますが、言い換えればやっとPart threeまでを自分で好き勝手に解釈できるようになっただけのことでしょうか。何かを超えるほどの自由を手に入れよ! 私は手助けしたい。とジョナサンであるリチャード・バックはとても親切なことを言っているのだと読めます。五木寛之氏はゾーンとかフローとか書かれていますが、境地に至るこの部分こそが主題で、単純な、空飛ぶ人間しか理解できない領域の事を書かれていると思います。
すなわち、Part fourの感想が出てきません。2013年に書かれた序文もよく意味がわからない。
後数年して、もう一度読み返すことにします。