moyo : : diary

気持ちフォト士

京都国立博物館

久しぶりに京都国立博物館に行ってきました。
私の知人である設備設計士が設備改修設計を行ったとのことで、そこら辺も見てこようと思ったものの、ひとたび中に入ってしまえば本日の展示に見入ってしまい、結局トイレすら行くのを忘れてしまいました。
そこで、目的の展示とは
「大出雲展 古事記1300年 出雲大社大遷宮
古事記に関しては誰もが有名な部分を知ってはいるものの、じっくり深く読み込んだ事は無く、実際地名とストーリーがリンクする史実を元にしたものである事を意識することが大事なのだと思い知りました。1300年代の古事記上巻とかがいきなり展示されていて、しかも結構きれいな保存状態で驚くべきものです。
しかし、本展の私の目的はなんと言っても出雲大社です。
雲太 和二 京三
これは本展示でも示されていましたが、平安初期の源 為憲が口遊(くちずさみ)という本に示したもので、すなわち出雲大社が日本で一番大きかったと言う事です。
和二とは奈良の大仏殿であり世界最大級の木造建築とも言われていますが、当時は今のより更に大きかった事を考えると、それより大きな出雲大社と言うとどれ程大きかったのだろうと考えさせられます。
出雲大社の社伝によると本殿の高さは上古32丈、中古16丈、その後8丈となっていて、32丈とは96メートル。16丈とは48メートル。8丈とは24メートル。
ちなみに現在は千木までの高さ24メートルで、社伝の通りとなっています。
本展示では48メートルと書かれていて、96メートルと言う数字はどこにも出てきません。
有り得ないと一蹴されてしまっているのでしょうか?
せっかくの大出雲展なのですが、このような学説の決めつけと固定観念化にはがっかりするものが有ります。
気を取り直して、ここでの目玉はなんと言っても本居宣長の「金輪御造営指図」です。(写真不可でした)
なんか、現物を見ると簡単に墨で描かれています。しかし、どうやって円を書いたのか、コンパスが有ったのか?想像するとなかなか面白いものが有ります。
赤線が使われていたり、消えかけていたり、じっくり見ていると、この金輪造営図の通りに巨大な掘立柱跡が発掘された時の当時の驚きが蘇ります。
その御柱(レプリカ?)もきちんと用意されていました。


















三つの木材を鉄輪で締めつけて太く、長く繋いでいくという仕組がおそらく96メートルの高さを可能にしたのでしょう。
ところで、96メートルと言うのが非現実的と言われはするのですが、その理由は高すぎて倒壊するからだと言うことでしょう。
ちなみに、出雲大社倒壊の記録は多数有り、源経頼の日記等によれば、風も無く倒壊した、以前に倒壊して修復されたのに再び倒壊したとも書かれているそうです。これが1031年の事。
更に1061年には6年掛けて修復された正殿が転倒。再び1109年に転倒。1145年にも転倒。1172年、1235年転倒。 ざっくり倒壊の連続であったようです。
つまり、とても弱く、壊れやすい建物であったと言う事です。
大断面の木材が腐る以前に(掘立柱跡は地中の水位より上で浅く腐り難い)風も地震も無く倒れるというのは、単純に考えると座屈です。
座屈とは柱が細長過ぎると横方向に柱が振れていきなりポキンときます。
今回の展示では中古16丈、すなわち48メートルのスケール模型が展示されていますが、これは実際壊れ難そうな感じがします。まして、大仏殿とさほど変わらぬ高さであれば、一番に雲太などと呼ばれないのではないでしょうか。たとえば東寺の塔は大仏殿より高いのですが、単にちょっと高いだけでは大仏殿に敗けます。
やはり、歌に歌われるようなきわめてインパクトの有る建物であったと考えるのが普通だと思われます。神殿の前には109メートルの階段若しくはスロープの柱跡が残されていますが、勾配が緩過ぎます。昔の建物は皆急勾配です。
今日気がついた事はもう一つ。出雲では二拍手ではなく四拍手のようです。