moyo : : diary

気持ちフォト士

FILM Camera

未使用フィルムが5本。
有効期限は1992年3月。
実家の屋根裏から出てきたようです。
入れてみようかな。

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昔、写真は私の趣味でした。
フィルムスキャンしてレタッチやトリミングするのが好きで、綺麗な作品に仕上げようと凝ったりました。
iPhoneを使い出してからそういうことが無くなり、撮りっぱなしで雑なアングルでも気にしないようになってしまいました。写真に対する興味が薄れたんでしょう。
常にポケットに入ってるiPhoneカメラ。いざという時の記録カメラには最適です。これは作品を撮ろうとするカメラでは無いですね。
 
必要な時しか撮らない。そんな撮り方をしていたら、iPhoneでない普通のカメラでもiPhone的に撮ってしまって、ついにカメラを持ち歩かない人間となってしまいました。
しかし、写真の本質ってiPhone的撮り方の方が本来の性格なのかもしれません。
記録であって作品ではないのか?
作品としての写真とは、写真が持っていた本来の商業性から美の世界へと昇華して、特定の芸術の領域となりました。
 
一般的に、商売の道具として写真が果たした役割は計り知れない程重要なものです。
デザインの良し悪しで売上が左右される商品。同じく写真が商売の道具として使われた場合、写真の良し悪しにより成果は大きな違いを見せるでしょう。
広告、パッケージ、その他、商売の道具とは消費されるということに他なりませんが、大量に生産されることでも有り、大量の写真家を必要とする事にもなります。
デザイン性すなわち芸術性が求められるのは当たり前の話でした。
 
昔の私はそれを真似していたわけです。
写真はシャッターを切ったその時間のみを切り取った記録です。
現実には人間の認識能力を超えた非現実的な過去の実在です。
一瞬を切り取った絵を残す画家もいるけど、写真のリアリティと瞬間という時間は別種のもの。
写真を参考にする著名な画家も多数います。
私の好きなセザンヌやドガも。
カメラでしか成し得ない構図と動きの表現を取り入れて写真をコピーする。
カメラで写した写真は一瞬の静止時間なのにダイナミックな動きが表現される。
レンズの画角に制限されたカンバスは新鮮な構図と対象物の配置を行う。
人間が有りのままを写実するのは実際難しいことなのでしょう。
それが人間の能力とも言えますが、現実を簡単に、意識せずに違うものに再解釈してしまう。だから、写真で改めて実際の瞬間を切り取ると、躍動する動き(時間)を突きつけられる。
 
二十数年経ったこのフィルムをContax T に入れて、
何を撮るか? 
フィルム写真はそこから始まってしまいます。
フィルムを入れた以上、撮る必要が生じるようです。