moyo : : diary

気持ちフォト士

資産としての住宅

先日、知り合いの参議院議員から久しぶりに電話を頂いた。
すこし、考えさせられた。

彼は住宅の資産は必ず目減りし、ローン完済と共に価値は0になると言う。
たしかに現状は完済以前に0だろう。
すなわち、土地代のみが資産として残るわけで、建物は資産ではない。
これは、RCの賃貸マンションなどでも減価償却が認められているわけで、
基本的に日本人はストックとは考えていないのだ。

彼は、内需の拡大のためにも住宅は資産となるべきで、資産となるには
性能のアップが大切だと考えているようだ。
すなわち、資産とは目減りしない物を資産とし、そのような資産となれば
持ち家を選択する人が増える。資産であれば市場性が高まる。
そして私はこう思う。
賛成だけど性能だけでもない。

かつて、メタボリズムという運動があり、建築は時代により変化すべく
フレキシビリティーを新築当初より考慮しておくべきだという考え方が注目された。
すなわち、建築とは普遍的な物ではないと。
実は、この柔軟性が資産となる資質として重要な物であろうと思う。
地震があまり来ないと考えられているヨーロッパなどは古い建物を柔軟に改装や
間取り変更、設備の更新などして、大切に使い続けている。

日本においても、これは重要な考え方であろうと思う。
耐震化工事を施すことにより、古い建物でも充分な強度を保つことが出来る。
現代のスペックに適合すべく断熱や設備更新も施すことが出来る。
実は、新築にこだわる事ではないとも考える。
そして、構造体に依る物でもない。
木造であっても、RCであっても、鉄骨造であっても実は住み心地のレベルに上下は無い。

気持ちの問題である。
ところで、ハウスメーカーや建て売りなどの木造建築で木の香りのする家なんて無い。
するのは畳の匂いぐらいだ。
現代の木造に木の香りを持った物はそれを意識して作られた物以外ほんの僅かだ。
木の香りなどはせずに接着剤の匂いがするという事だ。
ハウスメーカーは実に言葉巧みだが、これは住宅の専門家である自らが考えた言葉ではなく、
コピーライターや広告宣伝業者が考えたものだ。
建物の揺れを熱に変える家なんて、毛利さんが言わなくても当たり前の話だろう。
勝手に変わるのである。

これらのスペックは住宅を工業製品と捉える所に有る。
ここで、工業製品であろうする規格型住宅がローコストを目的にしていることは間違いない。
ここで言う所のローコストとはもちろん製品原価のことだ。
ハウスメーカーは住宅を工業製品と考える。そして、地場の工務店も工業製品と
そのように捉えようとする。その方が効率がよく手間と予算を省くことが出来る。
結局それが、クライアントの求める姿であろうと考えるのだ。

クライアントはどうだろう?
殆どのクライアントは工業化、省力化、効率化、ローコスト化は正解だと
考えているのではないだろうか?
間違いなく、それなりにコストパフォーマンスを期待する。
こうした成果品はストックだろうか?
目的の優先順位でコストパフォーマンス上位に占めるものは、何かをあきらめた
結果である事が多い。

何をあきらめるのか?

それは、個性である。

今、構造強度をあきらめる人はいない。省エネルギー性をあきらめる人も少ない。
いろいろなハウスメーカーが存在するが、使われる材料は以外と同じ物だったりする。
例えば、パナソニックやダイケンのドアがついている。パナソニックやダイケンの
積層フローリングが使われている。サンゲツのクロスが使われている。
四国化成の珪藻土が使われている。
材料メーカーのバリエーションが建物のランクであったりする。

材料の色や柄のパターンの選択のみで個性を発揮しているのだとおよその人は勘違いをしている。
まさしく、工業化、省力化、効率化、ローコスト化は正解だと考えられている結果だ。
車に例えると、セルシオとビッツは何年で資産価値は0になるのか。
高価なセルシオの方が価値の下がる期間が長いのだろうか?
この2つの車の違いはランクだけだ。

フェラーリはどうだろう。未だに工業製品とは言えない手工業的な手法で生産される。
精度、快適性、耐用年数、ビッツと比べてどちらが壊れにくいのか?
どちらが、維持費を安く出来るのか?
しかし、どちらが資産価値を長く保有出来るのか?
セルシオと同じくイタリアのフィアット500と比べてみよう。どちらが資産価値を
長く保有出来るのか?

それを住宅に置き換えた時、どういう方法で住宅を資産とすることが出来るのか。
同じ方法では解決しないが、コストの事だけでもなさそうだ。
建物の長寿命化には将来の変化に対応する柔軟性が大事だと書いたが、それは基本性能
と機能を確保するためには必要とされる事であって、根本的には建物が長期にわたって
陳腐化しないある資質が必要なのだろう。

まさしく、真っ先に諦めてしまった「個性」が該当する部分の一つだろう。
その「個性」とは、何を元にし、何を基準にし、何の差別化が必要なのか?
単に「この人変わってますね」では個性的とは言われない。